二宮金次郎 |
日本の小学校の校門のあたりには二宮金次郎の石像が立っている。大月市・上野原市の小学校も例外ではない。ということで、大月市・上野原市の小学校の二宮金次郎を素人研究してみた。
その前に二宮金次郎のおさらいをしておこう。私は二宮金次郎は、「幼い時から働きながら一所懸命勉強し、立派な学校の先生になった人」とばかり思っていたが、どうも違うようである。
二宮金次郎は1787年7月23日、神奈川県の生まれである。新暦に直すと9月4日になる。役場には”金治郎”の名で届けが出されたが、受付係が誤って”金次郎”と書いてしまったので、そのまま「金次郎」となってしまった。(ちなみに、私も同様の境遇にある。)生まれた時期が運悪く、70年の人生で2度の大飢饉に見舞われる。兄弟は3人。 病弱な父の遺言、「枡の大きさが不揃いでは農民は困る。しっかり勉強して、枡の統一のために役人に意見できるようになってほしい。」を心に刻み学問に励む。20才で180cmと、大型の体格。35才頃から「尊徳(たかのり)」と名乗るようになる。ある時、ナスを食した金次郎は種が多いことから、飢饉が発生することを察知。農民達にヒエとアワを作らせた。金次郎の推測は当たり、その年全国で米が取れず食糧難に見まわれたが、この村だけは飢えを回避することができた。そんなこんなでたくさんの自治体の財政を立て直し、1856年70才で亡くなった。 幼少時、山へ薪を取りに行く際、行き帰りの時間がもったいないからと、「論語」や「大学」などの中国の古い書物を読んだ。働き者で勤勉なこの姿が昭和の始めころから全国の小学校に立てられるようになった。愛知県岡崎市の石屋さんが売り始めたのが最初といわれている。測量単位の変更を小学生に浸透させるために、二宮金次郎の大きさは1mに作られているという。東京駅八重洲ブックセンター前には文字通りの金次郎が立っている。(参考図書:二宮金次郎.小暮正夫.ポプラ社.1999年) |
なかなかすばらしい日本を代表する歴史人物だ。薪を担ぎ本を読む二宮金次郎の石像を毎日見ながら、小学生達はランドセルを背負ってゲームボーイに興じ、義務教育を卒業するとデイバッグを背負って携帯メールに夢中になる。そんな時代にはなったが、二宮金次郎に来てもらい財政を立て直したい行政区は日本全国にたくさんあるのではないだろうか。
さて、本題の郡内の二宮金次郎像であるが、大月市10校・上野原市4校を現地調査し、5校に二宮金次郎像を確認できた。 私の街の小学校(四方津小学校)の二宮金次郎像は次のような金次郎である。
金次郎の体型 昭和17年1月、身長110cm、股下50cm、3サイズのうちH88cm、足のサイズ18.5cm。入学したての小学1年生と大体同じ位の大きさである。ヒップのサイズが大きすぎるが、衣服の上から計っている。かなりだぶついている衣服を着ているので、半径5cmほど差っ引いて計算すると60cmの計算になるので、お尻の大きさも大体小学1年生くらいになる。足のサイズも小学1年生に大体一致するが、横広である。これは、靴を履かずにワラジを履いているせいと思われる。一方、手の平のサイズは、小学1年生にしてはかなり大きい。我が家の1年生、”子やチ” の手と合わせてみると、5、6cmは大きい。 |
荷物の大きさ 丸みを帯びているので計算のしようがないのだが、約10000cm3くらいになる。薪のサイズから計算してみても大体同じ位になる。それでは重さはどれ位になるであろうか。10000cm3は10リットルだから水なら10kgくらいになる。できたら水ではなく、薪に換算したいところ。そこで、何本薪を背負っているか換算したところ、意外なことがわかった。わが街の二宮金次郎は「11.5本」の薪を背負っていることが分かったのだ。すなわち薪の数は金次郎の右側から見ると11本、左側から見ると12本に見えるのである。これは左から刺し込んだ薪(No12)が短い、ないしは左側No7の薪が枝分かれして右側No7とNo12になっていることを意味している。薪が乾いているか湿っているかで重さが代わるが、薪の1本の重さを仮に約500gとすると薪の重さは5.75kgになる。1kgとすれば10kg位になる。背負子の重さを考慮に入れると10kg前後といったところではないかと思う。小学1年生にはかなり重い荷物を背負っている。ちなみに我が家の小学1年生は3-4kgの荷物を背負って学校に通っている。 |
わが街の小学校の金次郎のザッとこんなところであるが、甲州街道郡内の大月市・上野原市の小学校にある二宮金次郎を比較してみた。
大月市 | 上野原市 | ||||
畑倉小学校 年代不明 薪の数59本 |
大月東小学校 昭和20年 薪の数21本 |
四方津小学校 昭和17年 薪の数11.5本 |
沢松小学校 昭和10年 薪の数24本 |
上野原小学校 昭和15年 薪の数21本 |
大目小学校 薪の数43本 |
良く見比べてみるとなかなか面白いことが見つかる。
1.丁稚奉公スタイルは右足前(畑倉・大目)、ニッカボッカは左足前。服装が2種あり、各々で歩行スタイルが決まっている。
2.一番大きい荷物は、畑倉小学校。横幅も高さも一番。
3.一番早歩きは、四方津小学校。歩幅が広い。
4.本にちゃんと目をやっているのは、畑倉と大月東小学校。他は顔の方向、まぶたの形状から本を見ていない。
5.一番厚い本を読んでいるのは、畑倉と四方津小学校。指3本分の厚さがある。閉じるとこの2倍になる。
6.一番幼いのは畑倉。他の顔は青年という印象を受ける。
7.畑倉は山から下りてくるところだが、他は平地を歩いている。
以上が上野原市四方津小学校の二宮金次郎の詳細と大月市・上野原市の二宮金次郎の概要である。せっかくなので、全国の金次郎をインターネットで調べ、比較してみた。
服装と足
二宮金次郎像の写真を載せているホームページの金次郎写真を見て、服装と足の関係を調べてみた。全部で183人、というか183体というか、183基というか、とにかく183調べた。結果は次の表のとおりである。多数のホームページを調べると重複することが考えられる。重複したカウントの存在を否定することはできないが、集計からの推測に影響するほどの数はない。
左足が前 | 右足が前 | 合計 | |
丁稚ももひきスタイル | 12 | 67 | 79 |
はかまニッカボッカスタイル | 93 | 11 | 104 |
合計 | 105 | 78 | 183 |
やはり服装と、「左足が前か右足が前か」、は関係してようである。山梨県大月市・上野原市の二宮金次郎は標準的な金次郎ということになる。ところが、日本最古の金次郎像は、丁稚ももひきスタイルで左足が前になっている。
子供用の二宮金次郎の本(二宮金次郎.小暮正夫.ポプラ社.1999年)を読むと、始めて金次郎が薪を背負って歩きながら本を読んでいる姿が紹介されたのは、1891年と紹介されている。そのスタイルは丁稚ももひき左足前である。
服装と顔付き
インターネットの画像では、幼い顔か青年の顔かを判断するのはかなり難しい。しかし、”丁稚ももひき”は幼少時のスタイルであろうし、”はかまニッカボッカ”
は成長してからのスタイルというのはうなずける。となれば、顔つきとの関係は十分にありそうである。皆さんの街の二宮金次郎は、子供?青年?
さて、右足が前か左足が前かということはたいした問題ではないが、服装や顔付きというのはかなり問題である。つまり、二宮金次郎の生涯は「報徳記」が基になっている。そして、報徳記に書かれている薪を担ぎながら本を読んだのは父が亡くなって、母一人子3人のもっとも困窮した14歳の頃である。今で言えば、中学2,3年生である。はかま姿の青年顔が適切か、ももひき姿の幼い顔の方が適切か難しい年代だが、困窮していたことを考えると、はかまと言うのは考えづらいように思う。
二宮金次郎の利き腕
インターネットに載っている写真を見る限り、ほとんど全てに近い像が左手に本を持っている。ところが、日本最古の金次郎像は、右手に本を持っている。すなわち、左利きということになる。今回調べた限りでは、左利き金次郎像(右手に本を持っている)は、3人であった。左利き1.6%、右利き98.4%ということになる。右手に本を持っていたからといって、即左利きということもないであろうが、可能性としては左利きの確率の方が高いと思う。二宮金次郎は右利きだったのか、左利きだったのか?真実はいかに。ということで先の二宮金次郎の本を見てみると、左手で本を持っている。また、違う本の挿絵に金次郎が字を書いている姿と食事をしている姿のものがあるが、右手で字を書き、右手に箸をもっている。このことも合わせると、金次郎は右利きであり、左手に本を持っていた方が理にかなっていそうである。先の服装と前足と合わせると、
丁稚ももひき+左足前+左手に本
ということになる。調べた183人の二宮金次郎でこれと同じパターンは3人であった。これらは、始めて二宮金次郎が一般に紹介された時の姿を守っている貴重な像ということになる。
二宮金治郎
二宮金次郎像には、「二宮尊徳先生之像」とか「二宮金次郎之像」とか「勤儉力行」とかいろいろ書いてある。金次郎の出生時の名は、「金治郎」であったことはどの本にも書いてある。ところが、石像・銅像に、「金治郎」と書いてあるものはなさそうである。もし、「金治郎」と書かれた像があればかなり貴重な像ということになる。
親のつけた名は金治郎であるが、役場の受付係が金次郎と記したために、金次郎となったといわれている。ということは、公式な記録としては、金次郎しかないはずである。受け付け係は金治郎の文字をみたか、聞いたかして金次郎と思いこんだのか、何気なく金次郎と書いたのか、いずれにしても受け付け係のヒューマンエラーである。金治郎であることを知っているのは、役場の受付係だけと言うことになる。なぜ、金次郎ではなく金治郎であったことが分かるのだろう。受け付け係が受け取った金治郎と書かれたメモでも残っているのだろうか。
全国の二宮金次郎
大月市・上野原市の24校中、15の小学校を調べて(大月10、上野原5)、6校(大月2、上野原4)に二宮金次郎像が確認できた。40.0%の小学校に二宮金次郎の像があることになる。この数値は多いか少ないか。全国には60%近い地域もあるようだ。何割くらいの小学校に二宮金次郎像があるか分からないが、ザッとみて40-50%といったところではないだろうか。全国には24000校あまりの小学校があるというから、少なくとも10000の校に二宮金次郎像があることになる。全国の二宮金次郎ファンが協力すれば、全てを調査できるかもしれない。
・小暮正夫:二宮金次郎.ポプラ社.1999年
・児玉幸多:二宮尊徳.中央公論社.1995年4月10日第3版